« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »

2006年12月

2006年12月31日 (日)

2006年総括

Img_0800 今年もあと数時間で暮れて行きますが、皆さんどうお過ごしですか?

今年は私の友人や知人に子供がたくさん生まれた年でした。と同時に多くの人が亡くなった年でもあったなあと思います。近くでいえば我家の猫であった「ペル」が年初めの一月に亡くなりました。建築界でいえば、巨匠・篠原一男 氏の逝去。いじめで自殺した人もいましたね。

私自身は、今年、大きな出来事はなかったけど、とても悔しい思いをした一年でした。能動的に行動できる立場にないだけに、たとえそれがおかしくても指示を聞かざるを得ない状況に何度地団駄を踏んだことか。来年はもっと良い仕事ができればと思います。そして、一級建築士は絶対に取ります。理屈だけではなく色んなことで実践できるよう頑張りたいと思います。みなさん、どんどん意見や感想をお願いします。

それでは、皆さん良いお年を!来年も皆さんに多くの幸福がもたらされることを願います。

2006年12月30日 (土)

努力しない奴

今日は雪がない景色から一転。雪が降っています。今年の大晦日は雪がないのかなあと思っていましたが、どうやら雪景色で落ち着きそうです。

仕事収めのこの一週間は、イレギュラーな仕事が入って疲れました。本来、担当者レベルで十分収められる仕事を、収束させることなく人を増やしていく仕事の仕方というのはどうなんでしょう。それで、無意味に部署間でぶつかり続けて、きちんとした仕事ができるのだろうか。

この担当者、仕事が収束しない理由は自分が天才ではないからだと言っていたそうです。それは明らかに間違いです。掲げる提案を自分の中できちんと整理し、咀嚼して周囲に伝え、コンセンサス(共感)を得ながら、収束させることが建築に限らず仕事をしていく上で大切だと思います。ただ上から言われたことを咀嚼することなく他人に伝えていては、不必要に混乱を招くだけです。スケジュールをつくり、そこから逆算して、できることとできないことを判断し、全体の進捗状況を見ながら、自分の仕事を進めていき、その結果として提案というのができていくものだと思います。

設計者でありながら建築的知識や空間の把握能力が欠如しているだけならまだしも、仕事のスケジュール管理や提案内容の整理もまともにできないようなら、いてくれる必要はありません。むしろ邪魔です。なんの努力もせずに自分が天才ではないから仕事ができないというのであれば、あなたは生きている資格すらありません。あなたのもらっている給料を会社に返上し、退職すべきでしょう。残業飯の時に酒を飲んで酔っている場合ではありません。そもそも、やる気と自覚があるのか疑いたくなります。内容も程度も人により違いますが、人は生きている限り常に勉強です。

最後に一言、「お前には一生で一度くらい、必死で喰らいついてやってやろうとしたことがるのかよ。このあまちゃんが。」

失礼しました。今宵は小学校の同級生と飲む予定。楽しく飲みたいものです。

どっちだろう・・・?

今日(29日)から休みのはずでしたが、色々あり仕事にでました。

仕事をおえてから大学の同期の友人と飲みに行きました。室蘭にいた時に研究室でよく飲みに行った、室蘭焼鳥の店「一平」です。焼鳥と言っても、室蘭のは豚精にからしです。これがとても美味いんです。札幌に2店あるので、機会があればぜひ、ご賞味ください。

その帰りの終電です。

「この電車は岩見沢方面の最終電車です。」と車掌のアナウンス。その数分後、「この電車は苫小牧方面の最終電車です。」とアナウンス・・・?

「えー、どっちなんでしょうか。」車内はざわざわと騒ぎ始めました。しばらくして、「この電車は岩見沢行きです」と自動アナウンス。

「あの、お願いなので紛らわしい放送はやめて下さい。」

2006年12月28日 (木)

規範と自由

朝、職場に行く前にお茶を買うのですが、いつも買っているお店が閉店してしまったので、昨日から違う店に行っています。120円のお茶だったけど、店のおばちゃんが100円にまけてくれました。今日の朝は気分が良かったです。やはりコンビにではない、商店はいいですね!(職場に行ったら、途端に気分が悪くなったけど・・・。オレの3倍の年収もらってるのだから、頭使って働け、もうじき40歳のY尾!)

さて、閑話休題。

だいぶ堅い話というか、自分でも整理のついてない考えです。

最近、自由に振舞うことや考えることが尊重されていると思います。しかし、自由と自分勝手を履き違えている人が多いために、誰かが迷惑を被ったり、社会問題になることが多々あるように思います。自由の対極には常に責任があることを肝に銘じなければなりません。

また、自由を尊重するあまり、過去の伝統や慣習を軽視する傾向にあります。私達は今ここにあるのは、こうした規範があるからであることを忘れてはならない。今、若い人たちが目標を失っていると言われています。学校では常識的に振舞うことよりも、他人との差異をはっきりさせることが至上命題に掲げられています。そのために疲れてしまっているのだと思います。

規範なくして自由に発想することは、不可能です。規範とは自分を形作っている骨格であり、その規範を少し変えることが新しい発想に繋がるのだと思います。

建築の設計でも規範から自由になることが求められています。しかしながら、建築をつくること自体がすでに不自由のはじまりであり、ここに大きな矛盾があります。逆説的に考えるとある局面において不自由をつくることは、自由に繋がっているのだとも言えます。例えば、何もない大空間である体育館の真ん中にいても、その規範のない空間ゆえにかえって何もできないと思います。そこにバスケットやバレーボールのラインが引かれることで、ボールによるゲームが成立したり、椅子を持ち込むことで講演の会場になったりとある規範を持ち込むことでそれぞれの局面において活動ができるのだと思います。つまり、不自由(規範)を許容することによって自由が獲得できるのだと思います。

社会でも、建築でも、規範を軽視し、自由であることばかりが強調されるとかえって不自由になるのだなあと思います。それが、今の社会での生きずらさなのかもしれませんね。あのホリエモンも、規範なき自由を謳歌したために、結局、不自由な生活を送ってますし。

2006年12月27日 (水)

角松まであるのに…

Img_0797 写真は職場のあるビルの入口に昨日から飾られているものです。

年末の差し迫った時なのに、年明けすぐに提出のコンペのおかげで仕事が忙しくなり、いく年の余韻にも浸れない今日この頃です。

ブログを書かないとすぐに、覗いてくれる人がいなくなるので、疲れた体に鞭打ってがんばっています。なので、みなさん、よろしく!ついでに感想、意見を書いてね。(誰も反応してくれないから寂しいです…)

以下は、備忘録です。

問題点

現在のコンペにおいて、当事者である担当者、その上長に当事者意識が低く、スケジュールが差し迫っているのに提案内容が収束しない、もしくはブラッシュアップされない。

対策

1.全体の仕事の進捗状況の把握に努める→BBSを使ったリアルタイムの報告と毎朝、短時間の全体会議を開くことで部分(個人)と全体(組織)の密接な関係を図る

2.問題点の洗い直しと新規の提案の一本化→目的の簡素化による提案の強化と作業内容の簡素化による作業効率の向上

3.実行力(実効力)のある作業を心がける→口を動かす前に頭を使って手を動かせ

以上

2006年12月24日 (日)

メリー・クリスマス

みなさま、メリー・クリスマス。クリスマス・イブの夜をどう、お過ごしでしょうか。私はいつも通りの日曜の夜です・・・。腰の調子も少しは良くなったのでこうしてブログを書いています。誕生日が12月だったおかげで、誕生日のプレゼントとクリスマスのプレゼントとが一緒でした。だから、サンタクロースを信じることのない寂しい少年時代を過ごしていました。

さて、昨日、6年前に亡くなった中学時代の友人の家に行ってきました。お母さんと妹さん、そしてその子供達3人ついでにペットの犬が出迎えてくれました。中学時代の友人と奥さん、そしてその娘さんと伺いました。さすがに幼子4人が集まるとものすごいにぎやかですね。もうじき3歳の男の子は、元気に暴れるは、1歳の男の子は人見知りでなかなか泣き止まないは、0歳の男の子と女の子は、元気に泣くは、犬は走り回るは、まさに師走状態。でも、こういう騒々しさは明るくて良いですね。日々のストレスも吹っ飛びました。

亡くなったI君の七回忌は春だったのですが、なかなかタイミングが合わずにこんな時期になってしまいました。ずっと気になっていたので、年内にI君の実家に行くことができて一安心です。

I君は、僕にとって色々な意味で師匠に当たる人でした。中学時代はパソコンやアマチュア無線、そして河童踊り。大学生になってからはバイクの相談にものってもらいました。僕にはあまり、影響を受けた人はいないのですが、彼の存在は僕にとってとても大きかったです。アマチュア無線は当時、僕の中学では流行していて、今でいう携帯電話の感覚で、夜に話をしたものです。そのおかげ、今でも付き合いのある人がいます。I君もその一人でした。中学を卒業以来、疎遠になっていたのですが、僕が大学に入った時に彼のホームページを通じて、再会することができました。再会した時の彼は、すでに発病していて、治療中の身でしたが、バイクに乗ったり、色々な趣味や勉強に頑張っていました。残念ながら、再開から1年しないうちに亡くなってしまいましたが、その彼に言われた一言がありました。

「(物事が)できないことを病気のせいにしてはいけない。」

僕も病気もちなので、病気を理由に逃げたくなる時があるけど、彼の言葉を肝に命じています。

今年は行けなかったけど、来年は必ずお墓参りに行くから待っててね。

2006年12月21日 (木)

腰が痛い

昨日、職場で不用品を整理していて重たいものをかなり持ちました。筋肉痛になるかなと思いましたが、軽い筋肉痛で済みました。

ところが、毎朝の日課であるストレッチをしたところ腰を痛めてしまいました。高校時代に椎間板ヘルニアになりかけ通院し(初診で打たれたぶっとい注射は○△×‐‐;な位、痛かった)、3年前にはぎっくり腰をするほど僕は腰が弱いのです。

時が経てば経つほど痛い・・・。とにかく痛いです。帰りに整骨院に行ったところ、椅子に座ることを禁止されました。なので、横になりながらブログを書き込んでいます。ただいま、思考力がほとんどありません。

とにかく、イタイ!

30歳になって

僕も今月で30歳になってしまいました。(何も悪いことはしてないんだけどな)

職場や世の中を見渡してもこの人のようになりたいと思う人がいないように思います。60歳になりそうな人間が妙におだったり、一回り以上年齢が下の人間と同レベルで張り合ったり、文句ばかり一人前で自分では何もしなかったり、日々の努力を怠ったり、年齢の割には落ち着きがなかったり、別にネガティブに捉えたいわけではないのに目を覆いたくなる惨状を毎日、目のあたりにしていると具合が悪くなってきます。こうはなりたくないという反面教師ばかりだと悲しいです。でも、この人たちは平均的なサラリーマンよりはるかに高い給料をもらっているのです。これだけでも世の中の無常を感じずにはいられません。

僕は決して要領は良くないし、優秀な人間でもありません。でも、たとえアルバイトだとしても自分のやっていることに責任と誇りを持っているし、何よりできるだけ人に迷惑をかけないように心がけているつもりです。助けてもらった時には感謝しているつもりだし、誰か困っていたら助けてあげようとも思います。自分が苦しいから他人も苦しむのは当然だと思ったり、それは○○の役割だから自分には関係ないというような姿勢はできるだけとりたくないなあとも思っています。もっというと、僕は人間と仕事をしたり、遊びたいのです。人を馬鹿にしたり、人の優劣を競ったり、一方的に無理強いするようなことをしたくありません。そんなのはつまらない。

自分のやりたいことをやりつつも果たすべき責任を果たしたいものです。人間で物でも堪えるべきときにこらえないと惨めに朽ち果てていくのだと思います。「川は低きに流れ、人も低きに流れ…」るものだからこそ、自らを律するのです。それが大人だと思うのだけどなあ。俺のような大人になれというのは、恥ずかしいけどそういう大人になれればなあというのが僕の30歳の誓いのひとつです。

2006年12月20日 (水)

憲法9条

最近、憲法9条に関して改憲論が盛んに議論されています。憲法9条は他国との紛争を解決する手段としての戦力を永久に追放することをうたっています。つまり、戦争をする権利を永久に放棄するという宣言です。

中国との尖閣諸島問題、韓国との独島問題、北朝鮮の核武装疑惑など日本周辺諸国には物騒な話が多いです。(これまで日本政府がきちんと物事を解決しなかったつけだとは思うのだけど…)

それに加え、中国や韓国での反日感情の悪化、北朝鮮の拉致問題が明らかになったことを受けて日本国内では再軍備に関する議論が盛んになってきています。

戦争とは国が殺人を、事態打開の手段として正当化したものです。

また、憲法9条の改憲論者の多くは、日本において徴兵制度は復活させ、若い人たちを戦場に送ろうとしています。しかしながら、彼らの多くは、自ら戦場に赴こうと考えている人間は皆無です。人は前線(現場)から離れれば離れるほど、考え方が楽観的になります。だから、平気で人を戦場に送ろうとします。そこには自分が戦場に行くことを全く考えていない、無責任さを感じます。

私は例え国が認めても、人を殺すことはしたくありませんし、何より自分が機関銃の弾や、砲撃が行き交うなかを突っ走るだけの勇気を持ちあわせていません。だから、私は憲法9条を改憲することに反対です。

人は当事者ではないと、無理ばかり言うようになります。現場かfら離れれば離れるほど現実と理想の境が曖昧になっていきます。だから、現実をきちんと見極めたいものです。

この時代だからこそ、原理ではなく、実践が必要なのだと思います。

憲法9条に関して興味のある人に紹介したい本があります。

内田樹・他著「9条どうでしょう」、毎日新聞社、2006年

僕の心の師であるフランス現代思想の研究者である内田樹ら4人が憲法9条に関して、それぞれの所見を書き記したものです。法学者や政治家の書いた憲法論と違い、非常に分かりやすい言葉で、私見を述べています。

「私たちが本書でめざしたのは、護憲・改憲の2種類の「原理主義」のいずれにも回収されないような憲法論をかくことである。」

また最近では、お笑い芸人の太田光と哲学者である中沢新一が憲法9条に関して対談した本もでています。(まだ、読んでいないけど)

2006年12月18日 (月)

ゴミ箱に座る女

堅い話が続いたのでブレイク。

最近、朝の電車でゴミ箱に座っている大学生くらいの女性をみかけます。僕は、服が汚れるし、何よりゴミ並に落ちたくないと思うのでゴミ箱に座りたくないなあと思うので、彼女の行動がちょっと信じられません。何よりたかだか20、30分立っているくらいどうだというのだろう。

前に誰かが言っていたことを思い出します。昔の不良はタバコを吸って座り込んでも、絶対にお尻を地面にはつけないものだ。どんなに悪いことをしていても、地に落ちない根性があるからだそうです。

彼女は不良ではないと思うけど、どうなのだろう。ちなみに似合わないから、でかいサングラスをしながら微生物学のテキストは読まない方がいいなあ。

変わらないこと

「硫黄島からの手紙」をみて色々、思うことがありました。今も変わらないなあということです。

1.目上の者が目下に対して無理を言う。自分の考えを目下のものに対して強制する。

2.検討ないし議論もせずに新しい考えに対し、批判的な姿勢をとる。

3.場当たり的な考え、もしくは対処のみで、思慮が足りず、直情的(ヒステリー)。

現在は、命を失うようなことはありませんが、今も昔も変わらないなあと思います。1に関しては、当時、あまりにひどい仕打ちに対して上官殺しも横行していたそうです。僕の死んだ祖父も、戦場での上官にひどい仕打ちを受けたそうで、戦後、この上官を近所で見かけた時、本気で後ろから殴ってやろうかと思ったと言っていたのを聞いたことがあります。

本来の目的を忘れ、体面や面子にこだわるあまり、事実を隠し、多くの人間を死地に陥れる所業には本当に怒りを覚えます。過去から何も学ばず、また同じ過ちを繰り返す。人に迷惑をかけていることに気づかない。人に苦労をかけるときは自分も一緒に苦労をしなければ誰もついてきません。権限を持っている人が頭を使わなければ、みんな路頭に迷ってしまいます。自分の立場でできることは自分でする。そうのように心がけたいと思います。(物事は人任せにしないで自分で考える)

「君は、その二人を前線から退けてなお、余りある兵力があるのかね。良い指揮官は、鞭だけでなく頭も使うものだ。」テレビのCMでも流れていますが、渡辺謙演ずる栗林中将の台詞です。とても良い教訓だと思います。

2006年12月16日 (土)

硫黄島からの手紙

硫黄島の映画2部作の後編である「硫黄島からの手紙」を観て来ました。

物語は2005年の硫黄島から始まります。遺品収集の作業中にたくさんの手紙が見つかったところから、61年前に時間が遡ります。

硫黄島の静かな海辺からはじまり、渡辺謙演じる栗林中将の赴任。時が進みにつれ戦況が悪化。島にあった小さな街も住人の本土疎開によってなくなりました。頭の固い守備隊首脳部との葛藤。地下壕による島の要塞化。そして、1945年2月19日硫黄島攻防戦の日を迎えます。

「父親達の星条旗」でもそうでしたが、物語の途中に個人をピックアップした回想シーンがあります。彼らの心情がとても丁寧に描かれています。そして、二宮演じる西郷と中村演じる伊藤の物語序盤と終盤のそれぞれの状況と心情の対比はとても興味深かったです。

映像的には、映画全体として洞窟や夜のシーンが多かったので、影の描かれ方が非常に良かったです。洞窟の中や夜の戦場の不気味さ、死ぬことが既定の事実である兵士達の、どうにも仕様のない思いが伝わってくるようでした。

前作に比べ、戦闘シーンは少なくもっと静かな雰囲気がありました。逆にそれらが悲しみを増幅していたようにも思えます。映画館の中でもすすり泣く声がかなり聞こえました。

絶望の中で日本人がどのように考え、行動していたのかとても考えさせられる映画でした。

今日は映画の感想だけにしますが、何回かに渡り僕の考えた、思ったことを書きたいと思います。

2006年12月14日 (木)

旧拓銀本店

Img_0791 写真は、現在の旧拓銀本店です。北洋銀行の大通支店として20階建てのビルに立て直すため、解体工事が始まりました。思えば10年近く前、都市銀行で初めて経営破たんをきたし、北海道経済に暗い影を落としました。未だ傷はいえず、国内の景気とは無縁の不景気を現在ももたらしています。新しいビルが建った時には、道内経済も建て直っていると良いのですが…。

建物の質はともかく、長く札幌の街の景観をなしてきた建物がなくなるのはさびしいです。

骨格のようなもの

今日は久しぶりに暖かくなり、札幌も暖かかったです。でも、明日からまた寒くなるようです。

私もできるだけ気をつけているのですが、物事に対してとても細かい人がいます。物事を精緻に取り組むのは大切なことですが、それは一人で仕事をしている場合です。複数で仕事をしている場合、まわりとの関係を考えずに精緻に取り組むと歯車が合わずにお互いストレスを抱え、良い結果には結びつかないと思います。

今日は私のデスクの近くで打ち合わせをしていた人たちがいました。一人は私の職場のハーバード大学に会社のお金で留学にした事のある40代半ばの設計者。(ハーバード大にいたわりには、その優秀さをみたことがない!)もう一人は、下請けの会社の人。

設計者「こんなこともわかんないの?常識じゃない?そんなことじゃ、お金払えないなあ。」

下請け「えー、指示を頂いていませんので・・・」

設計者「こんなことも、いちいち指示しなきゃできないの?そんなんだったら、学生のバイトだってできるよ。しっかりしてよ~。」

下請け「そういわれても指示がありませんとー」

近くで聞いていて、不毛だなあというか、早く、あっち行ってよとのど下まででかかりました。設計者にしてみれば、金出して使ってやってるのだから、きちんと仕事をしろよという思いがあるのでしょう。それにしても口が悪すぎです。もっというならば、人の機微の分からない奴です。思わず帰り道に気をつけろよ言いたくもなります。下請けの人にしてみれば、事細かく指示された上、そのわりにお金もたいしたことがないでしょうからやる気もない。何か自分の判断でやるとまた違うと言われるので、指示待ちした方が良いという結論になるのでしょう。お互いに不信感を持っています。(私の職場は不信感でなりたっている稀有な場所でありますが。…)

本来、人を使うのは忙しくて一人では仕事をこなせないから頼む側面とお互いの能力のコラボレーションによって、良い仕事をしようという側面があると思います。残念ながら信頼関係のない場合は、お互いに依存しあって1+1=-2になってしまいます。また、仕事をお願いする時に大雑把に骨格のようなものを示さないで、細かい指示ばかりすると指示された方はそれを守るだけで疲れてしまいます。

これは私の建築を設計する時の考え方でもありますが、例えば時代や使う人が変わっても成り立つような骨太な建築が良いなあと思います。何か骨格のようなものを考えて、多少の失敗や間違いをものともしない建築をつくりたいと思っています。

2006年12月12日 (火)

そこまでしなくても…

最近、私の住んでいる付近ではマンションの敷地ということで第3者の通り抜けをしないように看板が立てられています。あまり効果はないようです。

私の住んでいるマンションの街区は隣の街区のマンション建設予定地(だった)である空地に駐車場の雪を捨てていました。その隣の街区からの苦情で今年からそこに雪を捨てることができなくなりました。(隣の街区ができるまえから捨てていたのに、20年くらい経とうとしている今になってどうしたんでしょう。)

で、この二つの話題が伏線になり今日の話題となります。

駐車場の雪の行先が私の住んでいる街区の敷地内になり、ある道が閉鎖されました。それに伴い、ここを行き来していた人は、必然的に近くの駐車場の通路を通るしかありません。この道、近くのO高校の高校生がよく通っていました。今朝、この道でO高校の先生による指導が行われておりました。おそらく、マンションの管理人が連絡したのでしょう。高校生達は渋々、進路変更していました。

確かに杓子定規に当てはめれば、人の敷地に入るのですから違法なのかもしれません。しかしながら、今まで何の不都合もなかったのだから無理に変える必要はないのだと思います。それは駐車場の雪に関しても言えます。権利は必要もないのに振りかざすべきではない。それによって誰かに不都合が生じるのであれば、意味がないのではないだろうか。(おかげで今朝は、フビンな高校生達に気を取られ、駅近くまでゴミを持っていってしまった…)

2006年12月11日 (月)

任天堂の底力

今年の10月に、英語の勉強をしたくて任天堂のDSを購入しました。ちまたでは、売り切れ続出のようですが、私は何の苦労もせず手に入れました。飲んで新札幌から歩いて帰る途中に、ふらっと入った店で購入しました。その店に、その時はたくさん、置いてありました。

何でも、今年一番のヒット商品のようです。DSがヒットした要因はなんと言っても「タッチペン」でしょう。タッチペンがあることでコントローラによる複雑な操作がいらなくなります。これであれば、お年寄りでも簡単に使うことができますね。

最近のゲームは、映像や音は良いのですが、肝心のゲームの内容がいまいちです。また、莫大な開発費と反比例するかのように売り上げは下がっているようです。何もゲームに限ったことではないですが、エンドユーザーを無視した独りよがりは良くないですね。

任天堂は、体感型のコントローラを装備した「WILL」も販売し、ソニーに差をひらいているようです。さすが、ゲームメーカというような発想の転換はすばらしいです。僕もそうですが、もう映像だけのゲームにはみんな、飽きてるんですよね。今後、ソニーがどのような追い上げを見せるか見ものです。(ソニーはノートパソコンのバッテリー問題で、相当打撃を被り、PS3にはソニーの命運がかかっているようです)

ちなみに、最近、気づいたのですが25年近く前に任天堂でだしていたゲームウォッチとDSliteは、外見が非常にそっくりです。知ってました?

2006年12月 7日 (木)

早く帰れた日に限って…

本日、仕事が早く終わった(正確には早く切り上げた)ので、近所の整骨院に行こうかと思いました。中学の時から寒くなると膝が痛くなるので・・・。少し走って、電車に乗ってやれやれと思っていた矢先、「江別-岩見沢間で人身事故が発生したため、この電車は運休いたします。」と車内放送が。

「はい~?」

何でも18:00頃に事故が発生。電車の発進は18:23。放送が流れたのは18:22。いったい、20分間も何をしていたのかと文句の一つでも言いたい気分。とはいってもこのままでは帰宅できないので、新札幌から帰ることにしました。その前に、無駄と分かりつつも、森林公園-札幌の定期で新札幌まで行けるか駅員に確認。料金は同じですから。

マリオ「この定期で代わりに新札幌まで行けないですか?」

駅員「この定期では行けません。」

マリオ「事故はそちらにとっても突発的な出来事だろうけど、電車が運休したのはそちらの都合ですよね。(ちょっと意地悪いけど)だったら、臨時に料金が同じ区間の電車代をとらないのが筋ではないですか?」

駅員「気持ちはわかりますが・・・。(気持ちはわかるけど何?)」

規定で決まっているのはわかるけど、事故に対して臨機応変に対応して欲しいものです。それでなくてもお客さんは気が立ってるのだから、もう少し考えて欲しいですね。案の定、新札幌駅の窓口ではもめている人が居ました。最近でこそ、大雪の時の電車の遅れに対するJRの反応はよくなりましたが、事故のときはまだですね。起こった事故はお互いに予期せぬことですから責めるようなことはしませんが、その後の対応は迅速にかつ、きちんとした説明をして欲しいものです。

しかし、人が早く家に帰れそうな日に事故を起こさないでくれ~。

2006年12月 6日 (水)

大根だけ…

知合いの娘さんである、小学6年生の女の子の話です。

ある日、知合いの方の職場に小学校から電話がありました。どうも、この娘さんが学校に来ていないらしいのです。まさか事件に巻き込まれたのか・・・。

急ぎ家に戻ると、居間で寝息をたてて寝ていたそうです。

母「○○、何時だと思ってるの早く、学校に行きなさい」

娘「あ、本当だ。」

母「早くしないさい。あとは片付けておくから・・・」

娘「大根だけ食べさせて~」

母「いいから早く行けー」

彼女にとっては遅刻して、学校に早く行くことよりも前の日のおでんの残りである大根の方が大事だったようです。遅刻してしまった以上、10分だろうが30分だろうが関係ないのでしょうね。この話を聞いた後しばらくして、また同じように遅刻したとか。さすがに2回目は大根を要求しなかったようですが。それにしても、この子は将来、大物になりそうですね。

攻殻機動隊

土曜日に借りてきたDVDを借りてきました。

神山健治監督、「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX Solid State Society」。

いわゆる大人のアニメです。萌え(よくわかんないけど)とは全く無縁です。テレビで放送されていた作品の続編で最新作です。攻殻機動隊は、士郎正宗原作の漫画を映像化したものです。電脳化(ネットワークの端末を直接頭に繋げるために人体に接続端子をつけたと考えてもらえるとわかりやすいかと)が常識化した近未来における、ネットワーク犯罪を取り締まるため、日本政府によって組織された「公安9課」の活躍を描いた作品です。

今回は「傀儡廻」がキーパーソンです。(この作品にはシリーズをとおしてのキーパーソン(というか犯罪者)が必ず出てきます。1だと「笑い男」、2だと「個別の11人」)詳細は書きませんが、幼児虐待、高齢化社会、医療問題と現在の日本が抱えている問題が背景として描かれており、色々、考えさせられました。その中で気になった台詞を二つ。

『「俺達のできることって、何ですかね。」「一つだけ言えることは、我々は自ら律することルールの中で、不条理に立ち向かっていくしかないということだ」』

『規範の中にいる時は、それを窮屈と感じるけど、規範なき行為は、行為として成立しない。結局、堂々巡り。』

なにか感じるものはありませんか?

2006年12月 3日 (日)

虚しい教育論争

別に意図してみたわけではないのですが(DVDをダビングしようとしていただけ)、たまたま、衛星放送で教育についての討論会を目にしました。どうやらお題は、「どうやると教師の質が高められるか」だそうです。討論のメンバーは、大学の先生と、校長経験者。

テレビの討論番組でありがちな、収束点がないまま、議論が平行線。見ていて非常にストレスがたまりました。要旨を話すと、「教育はサービス業なのだから市場の競争原理を取り入れて、市場(親)のニーズに応えよ。そして、教免の更新制と能力給を導入せよ」VS「教師のやる気を喚起させる様な制度をつくり、教師の生の声をもっと聞け」というものでした。

僕も話を分かりやすくするために極論することはあります。しかしながら、こういった物事をよくしようという議論では、最終的な落としどころをつくらないで、極論の応酬を繰り替えてしていては、建設的な議論には繋がらないと思います。これでは議論の為の議論です。「教師の労働環境の改善」が目的なのか、「教師の生徒に対する指導力の向上」が目的なのか視聴者にわかるようなテーマ設定をして、最初から話を収束させるように仕向けないNHKの無作為の方が問題なのかもしれません。

特に気になったのは、教育はサービスだと繰り返していた成蹊大学の先生です。相手を見下し、馬鹿にするかのような発言を繰り返していました。見ていて、非常に不快でした。僕も、学校の先生と話していて、先生方の世の中との温度差を感じることがあります。しかしながら、それは教師だけではなくこの国のどの分野でも感じられる、閉塞感なんだと思います。要は他業種と接する機会がないので、自分達の世界の常識が世の中の常識だと勘違いしてしまうことと同じなのだと思います。だから僕は事あるごとに他業種との交流を声高に叫んでいるのですが…。話がそれてしまいましたが、彼の言い分が是としたならば、教育の質とはつまるところ資金量の差ということになってしまうということです。そして、どうせ教師だって金だけが目的なのだから理想論などは必要ない。すべて数字という客観的データのみを信用すればよいということで能力給なのだそうです。

僕は現実を無視して、理想論ばかりを追い求めることは嫌いですが、理想そのものは決して否定しません。人は何かをやり遂げよう、もしくは、現実にしようとするからがんばれるのだと信じているつもりです。こういった、人の心理を信じられない、金の亡者を見ると本当に具合が悪くなってきます。

こういった人たちが、収束点のない議論を続けているのは虚しいですね。教育を享受する子供達を置去りにして、誰のための教育論なのだろうか。もしかして、彼らの議論は凶行論?

ランドセル

今日、手袋を買いに無印良品に行ってきました。

そこで気づいたのですが、最近、無印ではランドセルも取り扱っているんですね。一万円もしないのに、物は良さそうでした。何より丈夫そう。

ランドセルを見ながら昔のことを思い出しました。僕らが小学校の頃は、ランドセルというと革で作られていて(今でも大半はそうだろうけど)、男の子は黒、女の子は赤が定番だったと思います。その中で、緑色のランドセルを持っている子がいて、いいなあと思ったことを思い出しました。今は、いろんな色があるからそう思わないのかもしれないけど、当時は非常にめずらしかったのでうらやましく見ていたものです。(今、思えばたいしたことではないけど。だいたい、僕は3年生の途中でランドセルをやめてしまった、親不孝者でしたので・・・。)

2006年12月 1日 (金)

地上に浮き出る地下

現在、札幌の駅前通りでは札幌駅前地区と大通地区を繋ぐ、地下歩道の工事が始まりました。駅前通りを覆っていた木々は移設され、道路は丸裸状態です。国の補助金を使っての工事なので、この地下歩道には店舗が入りません。信号に引っかかりたくない、冬はあたたかいところを歩きたいというだけで、巨額の資金を注ぎ込み整備する必要があるのか疑問です。そもそも、寒いところを歩きたくないのであれば、あたたかい地域に引っ越せばよいのではないだろうか。自分の都合に、環境を合わせる愚かさをもっと知るべきだと思います。同時に、環境に自分を合わせることが、いかにローコストであるか知るべきです。(除雪の話でもそうですが、市のサービスを細部まで行き届かせると札幌市の財政は間違いなく破たんします。自分でできることは自分でやりましょう。)

Img_0759 さて、愚痴はさておき、写真は現在の駅前通りです。よく見てもらえればわかりますが、道路に大きなコンクリートボックスが設置されています。当初は何のために置かれたのか分かりませんでしたが、これらに植樹、電柱はては青看まで移設されています。まるで地下の埋設物が地上に浮き出たようです。地下の工事中なのですから当然、これらを地下に埋めておくわけにはいきません。

よく見ると、異様な光景です。まるで誰かに引き抜かれたようです。

コミュニケーション

コミュニケーションに大きく4つに区分されると思います。

1.相手の存在を無視するかのように、自分のこと(もしくは考え)しか話さない人。私はこれをテレビ型人間と呼んでいます(テレビは一方的に情報を垂れ流すメディアだから)。

2.相手が話しているのに、割り込んで話す人。テレビの討論番組で一番、多いタイプです。

3.相手の話をよく聞き、咀嚼し、自分の考えを話す人。

4.聞いているか聞いていないのかわからない、自分のことも話さない人。

世の中では1や2の人が重宝されています。なぜか?それは、言葉の物量作戦が行えるからです。相手が理解しないうちに、もしくは相手が発言しないうちに、自分のことを話し、情報を強制的に押し付けてしまうことで、気の弱い相手であれば発言の意図を奪い去ることができるからです。これはもう言葉の暴力と言ってもよいかも知れません。ただ、困ったことに、1・2の人は、自分にはコミュニケーション能力があると勘違いしている人も多いと思います。自分の思いをぶちまけることと自己主張は別個のものだと思います。

4はもう、論外ですね。自ら人間であることを放棄しています。

理想は3です。口数が少なくても、人の目を見、人の話に耳を傾け、時にはうなずくなど反応し、“はい”か“いいえ”だけでも自分の意見を言える人には好感が持てます。

コミュニケーションとはキャッチボールです。片方が剛速球を投げても、相手がそれを取れなければ、それはもう立派な自己満足です。相手の心の機微に気づきながら会話をするのがコミュニケーションです。最近、自分の都合しか話さない人が多いと思います。他人あっての自分だということを忘れたくないものですね。

« 2006年11月 | トップページ | 2007年1月 »