一般論として、企業における役職、自営業におけるボスは先を見越して戦略を立てるものです。課長は2年先、部長は5年先、社長は10年先と何かの本で読んだことがあります。翻って私の職場はどうだろう。部長は、着任して約一年。明確な方針を示せずに、口先だけで周囲を混乱させてしまったおかげで部下に相手にされず、四面楚歌。やることがなくてどうでも良いプロジェクトのスケッチをしている。課長は、忙しさを誇示するかのように出歩いている。デスクにまともに座っているのを見たことがない。実はなにも仕事をしていない。外注に仕事を丸投げしている場面をよく見る。おまけに部長と課長の相性が最悪。昼時に職場のビルの食堂で一緒の席にいるのを見かけるが、会話している素振りがない。
ほう・れん・そうというのがビジネスの社会でよく言われます。ほうは報告、れんは連絡、そうは相談。この3つをきちんとこなすのが仕事をする上での基本。残念ながら、上記のような状況では、無理。だから、みんな好き勝手に動き出す。そして、最後はあちこちの業界で繰り返される、そのような報告は聞いていない。知らない。わからない。私は悪くない。~のせいだと繋がるわけです。権限が与えられるということは、決定権を持ち、同時に責任を持つということだ。なぜ、私が責任を持つという奴がいないのか。(そんなに嫌なら俺はいつでもかわってやるぞ!責任をもつからこそ、思慮深くもなる。)
そう、みんな分かっているはずなのだ。目前の事象に囚われすぎて思慮が浅くなっている。(某厚生労働大臣の失言もそう。少子化なんて、要因が複雑すぎて短時間でなんて語れないって)仕方ないだろう、~なんだから。しょうがない、~だから。やらなきゃならないだろう。黙ってやれ。確かにそのような側面は必要だし、即行動しなければならないことはたくさんある。でも、ただ行動しているだけで、物事はよくなるのだろうか。
僕は、ゼネコンの設計部にバイトではあるけど所属しているわけだけど、本当に多くのVE設計(俗に言う経済設計)の提案に関わっています。また、コンペ(デザインコンぺというよりは事業提案)で、低予算の設計にも関わります。そういう状況で金のことにしか考えない勘定奉行のような人が出てきます。どういう空間をつくるだとか、~のような人たちに使ってもらえるような空間にするという前に金の話をします。コストコントロールは必要だけど、度が過ぎれば、建築のチープ化は否めないし、何より、ゼネコンとしての存在価値そのものを揺るがせてしまう。(プレハブ住宅の会社が力をつけて、旧来のゼネコンの仕事を食い始めている。ローコストと生産性、効率ではハウスメーカーには太刀打ちできない。)
良い物をつくるという観点を忘れ、経済性にばかり目を向けていては、自分達の立ち位置すら見失ってしまう。(だからといって経済性を無視しろというのではなく、その状況や目的に応じて考え方をシフトした方がよいだろうということ)社会に広まっている価値観にばかり、目を向けるのではなく、自分達が社会に対してどのような方向性を示すのか。今の時代だからこそ、必要だと信じています。僕は建築に関わっている人間だから、あくまでも建築を媒介してということになるけど。目の前の仕事に忙殺されて、忘れそうなるので改めて書き記しておきます。元来、私は遠くがよく見えるけど、近くのことが見えていない人間です。その時は誰か、連れ戻してくださいね!
思慮浅きその先は、茫洋なるとした変化のない「フラット」な世界しかない。そこでは、あらゆる思考が効率に根ざし、人間を機械にする。感情を押しつぶされた人間は、精神的に死んでいく。そこには、苦役しか残らない。誰がそんな世界を望むのだろうか?努力しろとは言わない。ただ、ちょっとだけ考えようよ。ちょっとだけ、先のことを想像しよう。ちょっとだけ、相手の気持ちを考えようよ。そうしたら少しは、今よりましになるだろうなあ。
今回は長々と書いてしまいました。最近、疲れているので考えが後ろ向きになっています。自分の軸足をどこに向けているのかきちんと確認しないと、良い物はつくれない。再確認の意味も込めて書きました。
仕事が終わってから学校に行くというのは本当に疲れますね。友人に夜間の大学院に通学している人がいますが、彼のすごさを思い知っています。僕は資格の為の勉強なので機械的に覚えれば良いですが、仕事が終わってから、学術的思考の訓練をするのはヘビーだと思います。
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