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2007年2月

2007年2月28日 (水)

夕張再建に思う

夕張の財政が破たんしたのは周知の通り。国のエネルギー政策の転換により炭鉱の閉鎖が相次ぎ、街の主幹産業が崩壊。人もお金もなくなった。起死回生のリゾート計画も失敗。積もり積もったのは借金。

冷たい言い方だけど、明らかに改善の見込みのないものに投資するのは税金の無駄使いだ。高度成長期で金が余っていた時代ならいざ知らず、バブル崩壊後も投資し続けた人たちは何を考えていたのか。真意を問いただしたくらいである。人間も含めて、生き物の命には限りがある。国だって、会社だって、自治体だって人がつくったものなのだから、命数を使い果たすことはある。この真理からは誰も逃れることはできない。であるならば、再建するのではなく、いかにして終焉を迎えるかが大切ではないだろうか。確かに政策の転換によって街の衰退が始まったのだから国はその責から逃れることはできない。しかし、誰かに手を差し伸べてもらうの待つだけでは何の解決にもならない。街から人材や資産から流失しないようにするにはどうすれば良いのか、街を挙げて考えなかったから今の結果になったのではないのか。考えたから必ず良策がでるわけではないけど、その時は自ら街を閉める選択肢もあったのではないか。早く、この考えに転換できていたならば、ここまで事態が悪化しなかったかもしれない。自分が育った街がなくなるのは誰だって悲しい。でも、命数を使い果たしていながら生きながらえてくのは、あちこちに負担をかけてしまう。そうなっては助けられる命(街)も助けられなくなってしまうではないか。 時には冷徹になることも大切だ。

我々は、常に成長することを課せられてしまった。だから、過ちを認めたり、慎重になることはその成長を妨げることだと思い込んでいる。常に右肩上がりに状況が推移するという考えから抜け出さないと、際限がない。

2007年2月25日 (日)

本当に覚えられるのか?

毎度です。詳しくは書けませんが、あるコンペの仕事をやっているので昨日も仕事でした。今日も出てくれといわれましたが、学校もあるので断りました。そんなこんなで、本格的に学校が始まって以来コンペも同時に始まったのでちょっと体が・・・。あと10日くらい、大丈夫かな。

さて、建築士の学科試験は4分野に分かれています。計画・法規・構造・施工。それぞれにテキストがありその厚さが2cm×4で8cm。あと半年で覚えられるかな?でも、やらねば。ちなみ、構造の基本である構造力学が2回で終わった。これは大学の講義だと2年かけてやる所なのだけど・・・。でも資格試験って、年数が経てば経つほど覚えることが多くなるような。昔、僕が取ったアマチュア無線の4級は、完丸という対策本で勉強したのだけど、当時、その厚さは1cmもなかった薄いものだった。その数年後見たら、かなり厚くなっていた。ということは資格を取るのは早ければ早いほど良いのか。そんなで本当に良いのかな。

2007年2月23日 (金)

政治と建築家

今朝、新聞をみてびっくり!建築家の黒川紀章が都知事に立候補する。思わず笑ってしまった。黒川氏は代々木の体育館や東京都庁を設計した故・丹下健三の弟子にあたる。昨年、五輪の誘致の際に東京と競り、負けた福岡のアドバイザーをしていた建築家の磯崎新は黒川の兄弟子である。よほどこの件が腹にすえかねたのか。

建築家は政治家になってはいけないというのは、暗黙の了解だと思っている。それは、法律を作る立場になり、自分のつくりたい建築の為に法律を捻じ曲げるようなことがあってはいけないからだ。黒川氏が選挙に出馬するということは建築家生命を終えるということなのだろか。ちなみに最近竣工した新国立美術館は黒川氏の設計によるもの。

東京誘致に関して、建築家・安藤忠雄がアドバイザーについているが、最近の安藤氏には失望の連続である。東大大学院の教授を退職してから何か、かつてのストイックさというか反骨精神が消えうせたように思う。少なくとも、僕が好きだった頃の彼ではない。建築家が消費経済の中で、消費されていくのは、生きていくためにも作品を作り続けるためにも必要なことだと思う。(そもそも建築家はそんなに高尚な人間ではない。そう思っているのは、社会を知らない坊やだけだ。)しかしながら、表参道ヒルズにみられるように大資本に良心まで売り、かつての街並みを破壊する片棒を担いだり、既存の大都市にさらに資本や人材を集中させかねないようなイベントに協力するような人間に建築家を名乗って欲しくない。その点において僕は、黒川氏に賛成である(彼の内心はわからないけど)。

閑話休題。

最近、職場のあるビルでなつかしい顔をみます。僕の職場のあるビルの最上階にはN○Kの文化センターがあります。どうjもそこに通っているようです。誰か?高校1年の時に、僕のクラスの理科Ⅰの生物分野を担当していた先生です。名前は忘れてしまったけど、特徴的な顔なので覚えていました。

2007年2月19日 (月)

制度と建築

制度と建築にはとても深い関係がある。制度が建築の基本を決めてしまうと言ってもよいかもしれない。

日本では、年収が平均的な家庭でも戸建の持ち家を持つことができる。これは、政府が持ち家を奨励しているため、住宅を建てるために国から融資を受けれるのが大きい。これは戦後、アメリカからの意向が大きく反映されたためである。(勿論、アメリカでも一般庶民が戸建住宅を普通に持つことができる。)それに対し、ヨーロッパではよほど裕福な家庭でなければ戸建の住宅を建てない。これは、制度(というよりは思想の違いかも)の違いである。アメリカ、日本(戦後)では家は消費するものだけど、ヨーロッパ(戦前の日本も)では家族そのものだからである。話を簡単にすると、一般論として家(住宅)はアメリカや日本では、ステータスシンボルであるのに対し、ヨーロッパでは家族間のルールを具体化したものである。だから、ヨーロッパでは同じアパートでも同じプランということはない。住宅を家族に合わせてカスタマイズする。賃貸であるにもかかわらず部屋を自由に改修してよいのは日本との大きな違いである。そのような違いにより日本の若手建築家はたいてい、住宅からはじめるという世界でも稀な現象が起こっている。

本来、住宅は家族のルールつまり制度によってかたちづくられる。nLDKという考え方が広まったおかげで、住宅はこの考えかたに無理にあわせてしまうことが多くなってしまった。家族の事情に合わせて、ワンルームだって、細切れの空間だって良いはずなのだ。東京の狭い住宅事情で3LDKを見ると悲劇もしくは喜劇としかいえない部屋の狭さに驚愕するしかない。何か皆、既存の住宅に無理に合わせているようで可哀相だ。

最近、消費社会が日本で浸透しているため、部屋中に物が溢れている。これをポジティブに捉えて、部屋中に棚を設置する住宅がよく建てられている。中には本棚を柱にして住宅を設計した建築家もいる。また、家具によって空間をつくる人も増えた。ただ、僕は物で溢れている空間というのはあまり好きではない。なんか常に物で囲まれているのは落ち着かなくて疲れそうだ。どちらかというと何も無い無垢な空間が好きです。(自分の好みは別として求められれば応える。自分の好みを一方的に押し付けるよりは、どのように一緒につくっていくかということに興味がある。そちらのほうが思考の飛躍があるから好きだ。)

2007年2月18日 (日)

結婚式

Img_0841 昨日は大学時代の友人の結婚式でした。

正月に結婚するというメールをうけて、2ヶ月しないで結婚式。本当に驚いた。北海道で式を挙げるために、忙しい中、東京から戻ってきた友人は某ゼネコンの現場員。毎日、夜遅くまでサービス残業にもめげずに頑張ってます。とても真面目だから色んな人の話を聞いてあげているのだろうなあと思うともう少し手を抜いてもいいぞと言ってあげたくなる。まあ、奥さんのサポートあれば、なんとか乗り切れるかな。

その結婚式で、某ハウスメーカー(彼曰く、うちらも今じゃゼネコンだぞ)に勤める友人と再会。その後、すすきので飲む。4年ぶりに会ったので色々話す。

建設業って人に薦められる仕事じゃないよなという結論。夜遅くまでの(サービス)残業はあたりまえ。ヤクザまがいの工務店はある。今じゃ瑕疵が怖くて新しいことにも手がだせない。経済至上主義が横行しているために安いものは作れるが、良い物、面白いものがつくれない現状。仕事におもしろみを持てない、それでいて、プライベートの時間も家族も犠牲にしなければならない。家族のために働いているのに家族を苦しめる矛盾。じゃー、俺たちは何のために働いているのだろうとまたまた考えてしまう。

やっぱり、仕事は辛くても楽しくないとね。「建築って面白いぜって」、大手を振って言えるようにがんばろう!

2007年2月16日 (金)

トイレの話

トイレの設計は設計の基本。(ちなみに駐車場も基本。こちらは車だけど)それはなぜか?それは、トイレという空間に人間の動きの基本が凝縮されているからである。座る、しゃがむ、立つ、手を洗うetc。洗面台の高さは60㎝、便座の高さは40㎝、トイレブースの大きさは幅90㎝、奥行き120㎝。通路幅は120㎝。こういった基本的寸法が満載である。だから、トイレの設計をまともにできない者は建築の設計は向いていない。(ある組織事務所だと、できない奴は一生トイレの設計しかさせてもらえないとか。たぶん性質の悪い都市伝説だろうけど)

先日、テレビでトイレの話題に触れていました。トイレの大便器は今や洋式で統一されているのかと思いきや、和式が根強く残っているようです。どうもその根底には昨今の清潔ブームが影響しているようである。他人が座った便座は汚いから座りたくない。だから、洋式の大便器しかないところでは、靴を履いたまま便座にしゃがみ用をたす人がいる。結果、便座が壊れる被害が続出。よって、和式が見直されているようです。

その一方で、男性が小便をたすのに洋式の便座に座ってする人が、あるアンケートによると4割近くもいるようです。なんでも、小便を立ったまますると、床が汚れるから座ってして欲しいと家庭で奥様方が要望しているからだそうです。なんか、俺らの感覚かするとオムツ取れたてのはなたれ小僧みたいで恥ずかしいと思うのだけどどうだろうか?

明日は、大学時代の友人の結婚式。どういう雰囲気なのか楽しみだ。

2007年2月14日 (水)

小さな輪

最近、例えば趣味や考え方が同じだと集まり、小さなコミュニティをつくっている人は周りにいませんか?彼らの大半は思考の深度(ものすごく狭い範囲で)はあるのだけど、広がりがない。なんかそういう人たちと話していても、何か違和感のようなものを感じる。

若手(といっても僕らより上)の建築家達が、芸術家のように建築ではない自分が製作した芸術作品もどきで展覧会をしている。当人達は思いを表現できたと思っているかも知れてないけど、何をしたいのか全然わからない。建築家は芸術家ではない。誰も経験したことのない空間を創作するという意味では表現者かもしれないけど、現実世界で様々な条件の下に空間を立ち上げる実務者だ。

というように、自分達(を理解する人を含む)以外の他者と接触しようとしない。しないところか攻撃的になる。俺を理解しないお前が悪い。俺を理解できないのはお前達が馬鹿だからだ。・・・・。なんか、違うと思うのだけど。だいたい、人にわかってもらおうとして話さない奴の話なんて聞いててもおもしろくないよね。

ひとりで騒いでひとりで満足してるのを見るのって全然おもしろくない。やっぱり、輪は小さいよりも、大きいほうがいいよなあ。

2007年2月12日 (月)

やりたいこと

誰しもやりたいことがあると思う。(たまにいない人もいるけど)賞賛されたい人、達成感を味わいたい人、誰かのためになりたい人、様々だと思う。私もやりたいことがあるからこそ、不満があったとしても我慢しているわけだけど、それは悪いことなのだろうかと思うことがある。

誰もが、自分の欲望をむきだして生活していては社会そのものが成立しなくなり、ある種の無政府状態になってしまう。(現在の日本はそうなりつつある。)何か間違えた個人主義が横行しているために、苦しんでいる人、困っている人がいてもそれは個人の問題だからとスルーしてしまう。そんなことが最近、多くないだろうか。

私達の世代は、冷戦の終結、ベルリンの壁の崩壊、バブル経済が崩壊し日本経済が長い不況に突入していく様、55年体制の崩壊による自民党単独政権が崩壊、オウム真理教によるテロを十代の一番多感な時期にリアルタイムで目撃した。言わば、既存の社会体制が崩れるさま、つまり、東浩紀が言うところの「大きな物語」が終焉するさまを目撃したことで、社会に対して不信感を持ってしまったのかもしれない。国の言うこと、経済団体の幹部が言うこと、会社の言うこと、上司の言うこと、何か人の言うことに真実味を持てなくなったのだろうなあと、NHKの高校講座世界史を見ながら考えてました。結局、最後に頼りになるのは自分だけと考えるようになってしまい、そうやって間違えた個人主義=自身の欲望をむき出しにすることになったのかもしれない。

本当にやりたいこと、つまり目的や目標を決めたら、そこにいたるプロセスの中でたとえ不満や嫌なことがあってもなんとかするものだと思う。例えば、雪かき。嫌だけどしなければ、雪国では生活できなくなる。だから、あくまで許容できる範囲で、忍耐は必要だ。ただし、健康を害すること、必要以上に生活を犠牲にするようなことにはきちんと異議を唱えたほうがいいと思う。なんか皆、自分のやりたいことばかり唱えて、自分の責任から逃げてばかりいる。そうして、結局、自分が本当にやりたいことにたどり着けないで、やる気をなくしていく人がたくさんいるのではないのだろうか。そういう諦め感が格差問題や教育問題、果ては社会に蔓延している閉塞感に繋がっているような気がしてならない、今日この頃です。

2007年2月11日 (日)

話題

皆さん、ご無沙汰してます。今週は雪祭りが始まり、外では交通整理している警備員の笛やら演奏の太鼓やら、大通周辺は終日にぎやかで仕事に集中できなくてげんなりしてます。

昨日は友人の家に招待されました。友人の中学時代の同級生と奥さんの友人たちと鍋パーティーです。それとなく話はしていたのですが、会話が続かない…。僕も最近、疲れていたので、気が回せなくて反省。合コンではないので気張る必要はないけど、もっと楽しく話せればよかったのだけど、取っ掛かりがなくて、あえなく轟沈。

こういう場合、どうすればよかったのだろうか。最近のテレビ番組はみてないからわからないけど、だいたいの話題にはついていけるから話題を振ってもらえれば反応はできたんだけど、奥さんの友達にも悪いことしたなあ。

2007年2月 8日 (木)

下流志向

昨日、久しぶりにブログを更新しようと思ったのですがサーバーの調子が悪く、ブログの管理サイトにアクセスできませんでした。

今、読んでいる本の紹介。

前にも書いたけど僕の心の師、内田樹の著作です。

「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」内田樹 著、講談社、2007年

Karyushiko まだ読んでいる途中なのでさわりだけの紹介ですが、現代人は子供も含めて、多くの場面で消費経済にどっぷりつかっているという話です。学校で子供たちが先生の話を聞かないのは、先生の(おもしろくないと思われる)話をおとなしく聞いていても、その不快と思われる時間と“等価交換”するものがない。だから、子供たちは話を聞かない。というような話が書かれています。自分の今までの行動や考えを含めてハッと気づかされるようなことが多いです。興味のある方はご一読を!

ちなに、内田氏のブログは、→ http://blog.tatsuru.com/

2007年2月 4日 (日)

iPOD shuffle

本日、学校の帰りに家電量販店に寄りました。その店に小学校時代の同級生が働いていて、安くしてあげると言っていたので甘えさせてもらいました。

Img_0826 以前から、ノートパソコンのDVDドライブが熱損して調子が悪かったので、外付けのドライブを購入しました。それと「iPOD shuffle」を買いました。前から、iPODは欲しかったのですがさすがに手が出ないので、価格が手頃なこれにしました。こんなに小さいのに1Gで約240曲入るそうです。今時の技術はすごいですね。

前々から感心していたのですが、アップルはパッケージにかなり力を入れていて、気合入れてデザインしています。これも金額的にはたいしたことないのにパッケージはアクリルできれいに仕上げています。中身がなくてもこれだけも飾っておけるくらいです。最近は、パッケージも簡素化したり、音楽のようにデータだけになり、CDのジャケットもないような、味気ない時代だけど、こういうものを持つと、なんか得した気がして嬉しくなります。

2007年2月 3日 (土)

思慮浅き、その先は

一般論として、企業における役職、自営業におけるボスは先を見越して戦略を立てるものです。課長は2年先、部長は5年先、社長は10年先と何かの本で読んだことがあります。翻って私の職場はどうだろう。部長は、着任して約一年。明確な方針を示せずに、口先だけで周囲を混乱させてしまったおかげで部下に相手にされず、四面楚歌。やることがなくてどうでも良いプロジェクトのスケッチをしている。課長は、忙しさを誇示するかのように出歩いている。デスクにまともに座っているのを見たことがない。実はなにも仕事をしていない。外注に仕事を丸投げしている場面をよく見る。おまけに部長と課長の相性が最悪。昼時に職場のビルの食堂で一緒の席にいるのを見かけるが、会話している素振りがない。

ほう・れん・そうというのがビジネスの社会でよく言われます。ほうは報告、れんは連絡、そうは相談。この3つをきちんとこなすのが仕事をする上での基本。残念ながら、上記のような状況では、無理。だから、みんな好き勝手に動き出す。そして、最後はあちこちの業界で繰り返される、そのような報告は聞いていない。知らない。わからない。私は悪くない。~のせいだと繋がるわけです。権限が与えられるということは、決定権を持ち、同時に責任を持つということだ。なぜ、私が責任を持つという奴がいないのか。(そんなに嫌なら俺はいつでもかわってやるぞ!責任をもつからこそ、思慮深くもなる。)

そう、みんな分かっているはずなのだ。目前の事象に囚われすぎて思慮が浅くなっている。(某厚生労働大臣の失言もそう。少子化なんて、要因が複雑すぎて短時間でなんて語れないって)仕方ないだろう、~なんだから。しょうがない、~だから。やらなきゃならないだろう。黙ってやれ。確かにそのような側面は必要だし、即行動しなければならないことはたくさんある。でも、ただ行動しているだけで、物事はよくなるのだろうか。

僕は、ゼネコンの設計部にバイトではあるけど所属しているわけだけど、本当に多くのVE設計(俗に言う経済設計)の提案に関わっています。また、コンペ(デザインコンぺというよりは事業提案)で、低予算の設計にも関わります。そういう状況で金のことにしか考えない勘定奉行のような人が出てきます。どういう空間をつくるだとか、~のような人たちに使ってもらえるような空間にするという前に金の話をします。コストコントロールは必要だけど、度が過ぎれば、建築のチープ化は否めないし、何より、ゼネコンとしての存在価値そのものを揺るがせてしまう。(プレハブ住宅の会社が力をつけて、旧来のゼネコンの仕事を食い始めている。ローコストと生産性、効率ではハウスメーカーには太刀打ちできない。)

良い物をつくるという観点を忘れ、経済性にばかり目を向けていては、自分達の立ち位置すら見失ってしまう。(だからといって経済性を無視しろというのではなく、その状況や目的に応じて考え方をシフトした方がよいだろうということ)社会に広まっている価値観にばかり、目を向けるのではなく、自分達が社会に対してどのような方向性を示すのか。今の時代だからこそ、必要だと信じています。僕は建築に関わっている人間だから、あくまでも建築を媒介してということになるけど。目の前の仕事に忙殺されて、忘れそうなるので改めて書き記しておきます。元来、私は遠くがよく見えるけど、近くのことが見えていない人間です。その時は誰か、連れ戻してくださいね!

思慮浅きその先は、茫洋なるとした変化のない「フラット」な世界しかない。そこでは、あらゆる思考が効率に根ざし、人間を機械にする。感情を押しつぶされた人間は、精神的に死んでいく。そこには、苦役しか残らない。誰がそんな世界を望むのだろうか?努力しろとは言わない。ただ、ちょっとだけ考えようよ。ちょっとだけ、先のことを想像しよう。ちょっとだけ、相手の気持ちを考えようよ。そうしたら少しは、今よりましになるだろうなあ。

今回は長々と書いてしまいました。最近、疲れているので考えが後ろ向きになっています。自分の軸足をどこに向けているのかきちんと確認しないと、良い物はつくれない。再確認の意味も込めて書きました。

仕事が終わってから学校に行くというのは本当に疲れますね。友人に夜間の大学院に通学している人がいますが、彼のすごさを思い知っています。僕は資格の為の勉強なので機械的に覚えれば良いですが、仕事が終わってから、学術的思考の訓練をするのはヘビーだと思います。

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