多様性
最近、働き方、家族のあり方、社会のあり様などなどあらゆる場面で、多様性がうたわれている。偏見のない、いろいろな価値観が生まれるのは良いけど、本当に多様になったか疑問である。
そう思ったのは、修士論文を書いていたときである。私の修論は建築家の集合住宅の設計における創作論。簡単に言うと建築家が集合住宅を設計する時に何を考えて設計するのかを研究していたのだけど、最近の傾向として、不特定多数を対象として、どうとでも済める設計をするものであった。それは、核家族に囚われない、子供のいない夫婦、友人同士、単身者など単一的に捉えられない居住者を想定するものであった。そこでいつも唱えられていたのは「多様性」である。とにかくこの言葉で片付けられていた。
残念ながら、理想の上で多様性は存在するものの、現実ではあまり受け入れられていない。それは、基本的に一般の人たちは空間の認知の仕方、使い方の訓練をしていないからである。人は経験したことの中でしか物事を判断できない。何の教育もされていないのに理想を現実にはできない。
多様性は言論や制度としては存在するものの、現実には人々の無知と偏見のなかでうまくはいっていないのである。それが雇用の仕方に基づく、企業の収益の調整弁としての派遣社員の存在であったり、少子化の問題に結びついたり、格差の問題に繋がったりする。いい加減、言葉の戯れにはあきあきする。
本当の多様性は、様々な価値観が存在することを認め、それを許容する意識だ。
最近のコメント